自分らしさを活かして他の人の役に立とうと努め、自分の居場所を見つける―人生のタスクと向き合う方法 STEP5

階段

前回の記事(STEP4)では、「人生のタスク」(対人関係の問題)と向き合い、自立して社会の中でうまくやっていくために、自分の課題に取り組み、能力をつけて自立し自由になることについて書きました。

STEP5では、STEP4で身につけた能力を活かして他の人の役に立とうと努め、自分の居場所を見つけていきます。

他の人の役に立ち自分の居場所があると実感できれば、自分らしく自立して自由に生きつつも、他の人と良好な関係を築いて幸せになることができます。

ここでのキーワードは、「他者信頼」、「他者貢献」、そして「共同体感覚」です。

 他者信頼
他の人との関係を良くするために、横の関係(すべての人は対等)を築いていく手段として、他の人を無条件に信頼すること。裏切りを恐れず、見返りを求めずに相手を信じ続ける必要があります
 他者貢献
自分の存在価値を実感するために、仲間である他者に対して何らかの働きかけをして貢献しようとすること(他の人の役に立つ)。自分は誰かの役に立っているんだという貢献感さえあれば、目に見える貢献である必要はありません
 共同体感覚
自分への執着から他者への関心に切り替え、他の人を仲間だと見なし、共同体(「あなたと私」から、広くは過去から未来、宇宙全体まで)の中に自分の居場所があると感じられること。

アドラー心理学によれば、誰もが「共同体感覚」(自分の居場所があると感じられること)を潜在的に持っているそうです。

幸せに生きるためのカギとなる「共同体感覚」をつかむことをゴールにして、どうしたら「共同体感覚」を自分の中から掘り起こして、この世の中に自分の居場所があると実感して幸せになれるのか、考えていきたいと思います。

誰もが潜在的に持っている「共同体感覚」

共同体感覚」とは、自分のことばかり考えるのではなく自分の周りにも目を向け、他の人も自分と同じようにこの世界を構成する仲間なんだと考え、そこに自分の居場所があると感じられることをいいます。

人間は、身体的に弱い生き物なので、他の人と協力しなければ、この厳しい世界で生きていくことは難しいと本能的にわかっています。

そこで人は、他の人と助け合いながら生きるため、同じ目的を持った集団に入って自分の居場所を確保したいと切望します。

共同体感覚」は、人間にとって、助け合わなければ生きられないからこそ必要な感覚なので、アドラー心理学では誰もが潜在的に持っていると考えるわけです。

誰もが自分の中に幸せに生きるための「共同体感覚」という種を持っていて、それをうまく開花させて自分の居場所があると感じられるかどうかが、幸せになるための重要なカギになります。

自分の居場所を見つける方法

では、どうしたら人の奥底に眠る「共同体感覚」をよみがえらせ、他の人を仲間だと思い、自分の居場所を見つけて幸せに生きられるのでしょうか。

ここでは、シンプルだけど実行するのがすごく難しい「アドラー流メソッド」を、私たちがつい取ってしまいがちな方法と比べながら考えていきたいと思います。

アドラー心理学では、他の人を尊敬・信頼して仲間になり、適度な距離を保ちつつ、仲間を勇気づけたり仲間の役に立とうと努めたりしていけば、自分の居場所が見つかり、幸せに生きることができると考えます。

でも自分の居場所を確実なものにしたいという思いが強すぎると、特別な存在として他の人に認めてもらおうとしたり、他の人の期待に応えて自分の価値を実感しようとしたりしてしまいます。

「他の人が自分をどう思うか」という他人(じく)で生きてしまい、「自分がどう思うか」という自分(じく)で生きられなくなってしまうのです。

他の人に認めてもらえれば自分の居場所を確固たるものにできる反面、自分らしく自由に生きられなくなってしまいます。

アドラー流メソッド

もし他の人と良い人間関係を築きつつ、自分らしく自由に生きたいなら、勇気を出して「アドラー流メソッド」で自分の居場所を見つけていく必要があります。

では具体的には、どうやって共同体感覚をつかんで他の人を仲間だと思い、自分の居場所を見つけて自分らしく幸せに生きられるのでしょうか。

ここでキーになってくるのが「他者信頼」と「他者貢献」です。

他の人をありのままに見て受け入れる(尊敬)

まずは、「男性は男性らしく、女性は女性らしく振る舞うべきだ」等と、自分の価値観や理想などを押しつけずに、他の人を、この世にたった一人しかいない、かけがえのない存在として、ありのままに見て受け入れます(尊敬)。

一般的には「尊敬」は自分より優れた人を尊び敬うことを意味しますが、アドラー心理学では、その人が「その人であること」に価値があると考え、その成長や発展を援助することをいいます。
 
他の人を「尊敬」することは、その人と良好な人間関係を築くための重要な第一歩です。人は「ありのままの自分」を認めて受け入れもらえたと感じたときに、相手に対して心を開くからです。
 
筆歌
もし誰かが「ありのままの自分」を認めて受け入れてくれたら、「私は私でいいんだ!」と思えて勇気が湧いてきて、こんなに嬉しいことってないですよね。
 
 つい取ってしまいがちな方法
他の人を自分の理想や価値観に合わせようと操作する
私がまさにそうでしたが、人はついつい自分の物差しで他の人を見てしまいます。
他の人が自分の理想像とズレていると、「嘘をつくのは良くない」、「人はもっと謙虚であるべきだ」等と考えながら、その人と接してしまうのです。
自分では相手に対して不快に思っていることを表に出していないつもりでも、不思議なことに、相手は「この人は自分を認めてくれてないな」と敏感に察知します。
ましてや親切のつもりで「嘘つかない方が良いことありますよ」等と言っても、上から目線で言われているようにしか聞こえず、どんな言葉も相手の耳には入っていきません。
ありのままの自分を認めてくれていない人に対して、人は心を閉ざしてしまうからです。
 

他の人を無条件で信頼する(他者信頼)

他の人をありのままに見て受け入れることができたら、他の人との関係を良くするために、他の人を無条件で信頼します。

裏切りを恐れず、見返りを求めずに、相手を信じ続けるのです(他者信頼)。

この人は私を裏切るかもしれない、この人は私の期待に応えてくれないかもしれない等と他の人を疑っていると、相手も「自分は信頼されていない」と直感でわかってしまいます。
そんな状況では、自分も相手に信頼してもらえず、他の人と良好な関係を築くことはできません。だからこそ、他の人をまずは自分から無条件で信頼する必要があるのです。
他の人を信じて行動していても、残念ながら相手に裏切られて辛い思いをすることもあります。裏切るか裏切らないかは「他人の課題」であって、他の人の自由だからです。
そんなときは、気が済むまで思いっきり悲しみ、気持ちを切り替えてまた相手を信じます。どんなに裏切られても自分を信じてくれる人を、裏切り続けられる人はそうそういないからです。

もちろん、あまりにもひどい仕打ちを受けて、その人と親しくなりたいという気持ちが失せてしまった場合には、そんな関係は自分から断ち切ってしまってかまいません。

関係を絶つことは「自分の課題」ですし、無条件で相手を信頼することは、あくまで他の人と良い関係を築いていくための手段だからです。

 

 つい取ってしまいがちな方法

他の人を疑ってしまい信頼できない

裏切られて傷つくことを恐れていると、「この人は嘘をついているかもしれない」とか、「この人は浮気してるかも」等と疑ってしまい、他の人を信頼できません。

他の人を疑っていると、「昨日は何してたの?」等とやたらと詮索(せんさく)したり、ひたすら連絡をとって相手を拘束してしまったりしてしまいます。

そんなふうにしていたら自分も苦しいし、相手も息苦しさを感じてしまい、良い関係など築くことはできません。

 

他の人の関心事に目を向けて共感し、苦楽を共にして仲間になる(横の関係)

他の人を無条件で信頼することができたら、その人が好きなことや興味を持っていること等に注目してみます。

自分のことばかり考えるのではなく、他の人のことを考えてみるのです。

その人の行動を観察していれば、「この人は本を読むのが好きなんだな」とか、「この人は YouTube にハマってるんだな」等と気づくはずです。

そして自分は本を読むのが好きではなかったとしても、どうしてこの人はこんなに夢中になって本を読んでいるんだろう?と考えて、「何の本を読んでるの?」とか「どうしていつもそんなに本を読んでるの?」等と聞いてみます。

人は自分が好きなことや興味を持っていることについて聞かれると嬉しいので、「こんな本を読んでるんだ。おもしろいよ」とか「本を読むと、こんないいことがあるよ」と喜んで教えてくれます。

ありのままの自分を認めてもらえたと感じて、聞いてくれた人に何かしてあげたいと思うからです。

自分も教えてもらった本を読んで本の感想を語り合ったり、辛いときに本を読んで元気をもらえたことを知り、その人の立場になって悲しみに寄り添ったりする等、他の人に「共感」できれば、お互いに心を開いて、対等な横の関係を築いて仲間になることができます

「共感」と「同意」は違います。「私もそう思います」と「同意」することは、単に同調しているだけで、「共感」ではありません。
「共感」というのは、他の人の立場に立って「自分も同じ状況だったらどうするだろう?どんなふうに感じるだろう?」と想像する態度で、他の人に寄り添うときの技術なのです。
「共感」は技術なので、自分のことばかり考えず相手の立場になって考えるようにすれば、誰でも身につけることができます。
 
 つい取ってしまいがちな方法
自分のことばかり考えて、他の人に認めてもらおうとする
会話は、自分が話したら今度は相手の話を聞くというように「言葉のキャッチボール」です。
それなのに一方的に自分のことばかり話されたら、多くの人はうんざりして離れていってしまいます。
自分のことばかり考えて自分をアピールすることに夢中になっていると、自分を認めてもらえるどころか避けられてしまい、良い関係を築くことはできないのです。
また、自分のことばかり考えている人の中には、他の人の期待に応えて自分を認めてもらおうとする人もいます。例えば優等生になって親や学校の先生に特別な存在として認めてもらおうとするのです。
確かに他の人に認めてもらえれば自分は価値ある人間なんだと思えて、自分の居場所を確固たるものにはできます。
でも他の人の理想像に合わせて他人軸で生きることになり、自分らしく生きられず、自分の居場所はあっても自由がなくなってしまいます。
 

感謝の気持ちや喜びを伝えて仲間を勇気づける(勇気づけ)

他の人と対等な横の関係を築いて仲間になることができたら、仲間が自分のために何かしてくれたときに「ありがとう、助かったよ」と感謝したり、「すごくうれしい」と素直に自分の喜びを伝えたりするようにします(勇気づけ)。

人は感謝されると、自分が誰かの役に立てたことを知ります。

そして自分は他の人に必要とされていて価値ある存在なんだと思えると、自分の居場所があると感じて幸せになれますし、ありのままの自分を受け入れて、自分の課題と向き合っていく勇気を持つことができます。

いつも仲間に「あなたがいてくれて良かった」等と感謝や喜びの気持ちを伝えていると、仲間を勇気づけ、仲間を幸せにできるのです。

 
筆歌
感謝している自分も幸せだし、感謝された方も幸せだし、「ありがとう」はみんなが幸せになる魔法の言葉ですよね。
英国に住んでいた頃、とある韓国料理屋さんで美味しい食事を楽しんだときのことです。
そのお店で働いていた韓国人女性に「カムサハムニダ」と韓国語でお礼を言ったら、その女性は笑顔で「ありがとう」と日本語で返してくれました。
彼女も私も母国語が通じない異国の地で、相手の言葉でお礼を言おうと互いに歩み寄り、すごく幸せな空気に包まれた瞬間でした。
 

仲間の役に立とうと努めて自分の価値を実感し、自分の居場所を見つける(他者貢献)

仲間に感謝や喜びの気持ちを伝える一方で、自分も仲間の役に立とうと、仲間が何を求めているのかをその人の立場になって考えて行動するようにします(他者貢献)。
自分が好きなことや得意なこと等を活かして仲間の役に立とうとすれば、自分らしく自由に生きつつも、自分もこの社会で必要とされていて価値ある存在なんだと実感し、自分の居場所を見つけることができます。
ちなみに、自分は誰かの役に立っているという感覚を「貢献感」といいますが、役に立っているというのは、家事や仕事をするなど積極的な行為に限られません。
自分が生きていることが誰かの心の支えになっているだけでもいいのです。
どんな状況でも生き抜き「自分は一人じゃないんだ」という安心感を仲間に与え、「私が私であること」に価値があると思えれば、他の人に自分の価値を認めてもらう必要はありません。
 
 つい取ってしまいがちな方法
自己犠牲
誰かの役に立って自分の居場所を確実なものにしたいからと、「本当の自分」を捨てて自分の人生を犠牲にしてまで誰かに尽くしてしまう人がいます。
他者貢献は自分の価値を実感するためになされるべきなのに、「本当の自分」を捨ててまで誰かの役に立とうとしてしまうと、自分の居場所は確保できても、自分らしく自由に生きられなくなってしまいます。

まとめ

まずは、自分の価値観や理想などを押しつけずに、他の人をありのままに見て受け入れ(尊敬)、良い関係を築くために、その人を無条件で信頼します(他者信頼)。

次に、その人が好きなことや興味を持っていること等に目を向けて共感し、お互いに心を開いて、対等な横の関係を築いて仲間になります。

そして、仲間を勇気づけたり、自分らしさを活かして仲間の役に立とうと努力したり(他者貢献)して初めて、自分の居場所があると実感して「共同体感覚」をつかむことができるのです。

共同体感覚」を得て自分の居場所があると感じることができれば、自分らしく自由に生きつつも、人は幸せに生きることができます。

 
参考文献
『嫌われる勇気』岸見一郎さん、古賀史健さん(2013年 ダイヤモンド社さん)
『幸せになる勇気』岸見一郎さん、古賀史健さん(2016年 ダイヤモンド社さん)
『愛するということ』エーリッヒ・フロムさん、鈴木昌(しょう)さん訳(1991年 紀伊國屋書店さん)